シンシア、帰る場所もないのなら…
 
 

なつかしい人や街を訪ねて 汽車を降りてみても
目に映るものは時の流れだけ 心が砕けてゆく

 74年によしだたくろうとかまやつひろしがデュエットした『シンシア』は、南沙織が「ふるさと持たないあの人に、海辺の青さ、教えたい〜♪」と唄った『早春の港』のアンサー・ソングとして作られたと知られている。


 学生時代、福島県出身の友人が、横浜の僕の自宅を訪ねてきたことがある。4年生の夏だった。

 彼は同じ大学の北海道出身のかおりさんと、学校に程近い泉岳寺の彼のアパートで、半同棲のような生活をしていた。かおりさんはもともと僕の友だちで、僕は彼らの1年の歳月を知っていた。

 僕らは僕の部屋の天井一面に貼られた星座のシールを眺めながら、「何だか外で寝てるみたいだな」と笑いながら、寝ずに話をした。

 「かおりと別れようと思う…」

 彼女に対する想い、別れようと決心するに至った経緯を、彼はひと晩かけて喋った。内容はまったく憶えていない(薄情(爆))。
 二人は卒業後は結婚するものだと思っていたので意外だったが、二人にしかわからない事情があるのが男と女だ。

 翌日、閑にまかせて僕らは僕が通っていた近所のスポーツ・クラブに一緒に出掛けた。そのプールサイドやサウナでも彼は、別 れる意気込みを語っていた(笑)。
 一日遊んだ後、もうひと晩ウチに泊まって行けという僕の誘いを断って、彼はそこから彼女の待つアパートに帰った。

 その晩遅く、彼から電話が来た。
 「かおりに振られた。いま、福島の家だ」

 こちらから別れを切り出す筈が、彼女の方から先手を打たれたらしい。電話の向こうで彼は泣きじゃくっていた。振った振られたの問題ではなく、一緒に暮らした1年間がかけがえのないものだったのだろう。

 が、それより何も、今日の夕方まで一緒に横浜のプールで泳いでいたヤツが、いま福島に居る… ということが、僕には不思議でならなかった。
 そして、失恋した時に帰れる故郷があるそいつが羨ましく思えた。


 僕には「故郷」と呼べる場所がない。
 ずっと横浜に住んではいるが、離れたことがないせいか、はたまた街が昔の面 影を微塵も残すことなく変貌を遂げてしまったせいか、僕にとっての横浜は懐かしみいと惜しみを感じる「故郷」ではない。


 誰でも現実から逃げ出したくなることがあると思う。前向きに立ち向かう気力も失せる程の絶望感を味わうことがあると思う。失恋かもしれない。仕事上の敗北かもしれない。ずっと描き続けた夢が叶わなかったときかもしれない。
 そんなとき人はどうするのだろう?
 母親の匂いのする里へ、羽根を休めに向かうのだろうか・・・?


 「転石こけむさず」という諺は和・洋に存在するが、こけがむさないことの善し悪しの受け取り方がそれぞれ違う。
 どちらが正解なのかの判断はさておき、僕は転がる生き方を善しとする方を選んでしまったようなところがある。自分で選んだというより、流されてこの場所に来たと云うべきか。それでもいま一生懸命にやっていることを、「これが自分がすべき打ち込む価値のあるもの」と取り組めているところをみると、潜在的な希望に沿って流されていたのかもしれない。

 しかし、どこかで立ち止まることもあるわけで。
 大きな失敗をして、どうしようもない気持ちに苛まれている時、歩いてきた道を振り返ってしまうことも。。。

今では女房子供持ち、
思へば遠くへ来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信がもてないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

(『頑是ない歌』 〜中原中也)

 少年時代を想い返すと、あれから僕はなんて遠い処に来てしまったんだろうと、その果 てしなさに気持ちが眩む。


 家の前の道路はまだ舗装されてなく、子どもが自転車で行けるところにまだ田畑があった。ザリガニ釣りもできた。草野球ができるくらいの空き地は幾つもあって、毎日暗くなるまで三角ベースをやった。ボールが余所の家に飛び込むと、「すいませ〜ん、ボールを取らせてくださ〜い」と、勝手に他人の庭に入った。10円玉 1枚で、駄菓子屋では菓子とくじと袋入りのブロマイドが買えた。クロボウという砂糖の固まりのようなふ菓子を食べた。玄関のドア横には牛乳受けの箱があって、毎朝牛乳を配達してもらっていた。ラッパを鳴らしてくる豆腐屋さんから朝には納豆を、夕には豆腐を買った。夏には金魚売りが、冬には石焼きいも屋が来た。魚は魚屋さんで、野菜は八百屋さんで、お菓子はお菓子屋さんで買った。アイスやガムにはくじが付いていて、当たりが出るとお菓子屋さんでもうひとつ(もう1本)貰えた。

 ひとりっ子だった僕は、家ではテレビのチャンネル争いをすることもなく、好きなテレビまんがを観て、そしてヒマさえあれば新聞の折り込みチラシの裏にまんがを描いていた。
 夏休みや冬休みの午前中にNETで放映していたテレビまんがの4本立ては、それはそれは楽しみだった。。。


 傷心を引きずり、子どもの頃よく遊んだ神社を訪ねたことがある。自然に足がそこに向いていた。しかしそこには神社はなく、それどころかその裏山さえもなくなり、道路の敷かれ方も何もかもが変わり、何棟にもなるマンション群がそびえていた。場所を間違えたかと慌てた程だ。

 昭和30年代の風景には、生活のぬくもりと家庭の中の思いやりが残されている。戦前・戦中の呪縛から解放され、現在のような繋がりの希薄さもない。何て良い時代だったんだろう。
 僕にはその風景が、現在の風景と地続きには到底思えない。

 僕には「故郷」と呼べる場所がない。
 僕の想い描く「故郷」は、さすがに「兎追いしかの山」ではないが、それでも求める風景はどこを探してももうない。

 その替わり、懐かしいテレビまんがの映像に触れる時、昭和30年代のぬ くもりが甦って、何ともやさしい気持ちになる。


 僕にとっての“懐かしのテレビまんが”は、研究対象でもなく、コレクションの対象でもなく、故郷のない僕の「あの日と同じところ」。

 そしていま僕が絵を描いて生計を立てていることが、子どもの頃厭きもせずまんがを描き続けたことの延長線上にあることも否めず、そんなオマージュの意味あいもあって『昭和30年代生まれのためのテレビまんが大全集』を開いたわけで。


 当サイトの常連さんの或る女性はご主人から、「懐モノ系のホームページを開いている奴は、現実逃避型の人間だ」と云われたとか。
 このサイトや、このサイトを頻繁に訪れる奥様をあまり快く思っていないようなその言葉に、多少の抵抗はあるものの、真っ向から反論する気にもなれず。

 ただ他人がどう思おうが、「振り返ってなぜ悪い !?」という気持ちと、「決して“懐古趣味”なだけではない」という想いを綯い交ぜに、日々バカを云っている次第で。

 

| MENU |


テレビまんが大全集

Copyright © 2002 Nyanchoo

counter