Review
 
花咲ける孤独 山田花子
 

世界はウソつき

 

神の悪フザケ

神の悪フザケ

嘆きの天使

花咲ける孤独

 そもそも漫画とは“非現実”を表現するにうってつけの手段で、その“非現実”に想像力の乏しい読者は魅了され、夢を託すわけで。
 逆に云えば、“非現実”を産み出すチカラのない者は、いくら絵が巧く描けたところで、到底漫画家にはなれない。扉絵のようなイラストを幾ら描き続けても(また昨今のようにそれを自身のホームページに掲載しても)、その絵はそれ以上のものではない。

 山田花子は“非現実”を表現する漫画に於いて、あまりに“現実”を見過ぎた。
 それは『ちびまる子ちゃん』のような、同世代が共通の経験や思い出を持つ“笑って語り合える”現実ではなく、「愛」と「差別 」と「自意識」と「絶望」を綯い交ぜにした、ワイドショーでお手軽に言い回されるところの“心の闇”だった。

 “心の闇”は、決して特別なものではない。隠してはいても、誰しもが抱えているもの。その比重のバランスをどうつけるか、それが人生の処世術なのかもしれないし、意識するしないに拘わらず、皆うまく折り合いをつけて生きている。
 しかしあまりに“現実”を見過ぎた山田花子は、そこで袋小路にはまってしまったのだろうか。
 団地から飛び降りてしまった。


 《ガロ》的な漫画というものがあるとすれば、山田花子の漫画はきちんとその枠に収まる。異色なものも、異色の集まりの中にあれば、それは少しも異色でなくなる。
 が、そんな《ガロ》の中にあっても、彼女の漫画は満ち溢れた才能を放っていた。

 僕が初めて彼女の漫画に接したのは《ガロ》ではなく、《ヤングマガジン》の『神の悪フザケ』だった。イノセントなその漫画は、笑うには少しヘビィ過ぎた。後から知ったが、(意外なことに)講談社でちばてつや賞を獲ったのをきっかけに、連載が始まったらしい。

 彼女の漫画の表題、例えば『神の悪フザケ』や『嘆きの天使』『花咲ける孤独』『魂のアソコ』『みんな燃えてしまえ』『ノゾミカナエタマエ』『世界のウソつき』といったものからも、社会に対する非順応性や疎外感、そして恐ろしいほどの救われなさが伝わってくる。

 彼女の漫画を読んで、「自分のことが描かれているようで、冷や汗が流れた」という人も多い。現実は決して笑い飛ばせるものばかりではなく、冷や汗が流れる“敗北”の匂いのするものなのか。人はそれを「不幸」と呼ぶ。

 そしてそれはあまりにツライ。


 「良いことだけを考えよう!」だの「強く生きよう!」だの、前向きに生きている熱血漢には受け入れて貰えない作品。

 また、悲惨な自分を直視できずに、夢見る漫画に逃げ込んでいる憮醜には過酷に余る作品。

 現に僕も山田花子から目を逸らし続けた。
 僕の書架には幾冊かの彼女のコミックスがひっそりと並んでいるが、ページを開くことは稀だ。
 しかしひと度その本を開いた時、“ヘタウマ”にありがちなお手軽さやおためごかしのない、現実から目を逸らさない者だけが描けたエキセントリックな高揚に、綺麗な気持ちさえ見えてくるから不思議だ。


 山田花子本人は、そんなに弱い人間ではなかったのではないだろうか。
 映画『無能の人』ででしか動く彼女を観たことはないが、自殺に似合う容姿をしてはいても、それを上回る“理不尽への怒り = 強さ”を、彼女の漫画からは感じる。
 何より、弱い人間が「漫画家になりたい」という夢を、実現できたりはしない。


 しかし彼女は自ら生命を絶った。
 遺書もなくこの世を去った娘に寄せる父母の文を、92年8号の《ガロ》で読んだ。
 対人関係 - いじめを唯一のテーマにマンガを書き続けていれば、行き詰まりは不可避だったと分析する父親に対し、山田花子ではなく由美(本名)という存在だった娘の無邪気さを綴った普通 の母親の感慨には、涙が溢れた。


 作者は死んでも作品は残る。
 がしかし、ギャグ・マンガ(なんだろうな)の風化はあまりに早い。
 けれど時を経て、時代にマッチしなくなったとしても、山田花子の作品は永遠に読む者の心を不快にえぐり続けていくに違いない。


 彼女の死を報じる新聞記事には、「多摩市内の無職A子さん」と記されていた。

 
 

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