Review
 
勝つと信じること 『柔道部物語』
 

柔道部物語
© 小林まこと

 思い返せば、なんて汗臭い青春時代を送ってしまったんだろうと思う。
 僕の“ティーン・エージャー”は、汗と痣にまみれた、“華”とは縁遠ぉ〜い処にあった。まったくいいことが無かったワケじゃない。ガール・フレンドがいた時期もあったし、ファースト・キスも済ませた。けれど圧倒的に“華”は欠けていた。

 それもこれも、小学生の時に観たドラマ、森田健作の『おれは男だ!』のせいだ。時代はテニスに味方していた。が、僕はあのドラマに感化され、中学入学と同時に剣道部に入った。しかしそこで待っていたのは、ドラマみたいな爽やかな世界じゃなかった。
 饐えた臭いの胴着を纏い、来る日も来る日も竹刀を振った。面も小手も、気絶しそうな異臭を放ち、朝練の後の授業では必ずクラスメイトから「臭ぇよ」と嫌われた。
 何よりもつらかったのは、1年生の時に受けたしごき。あれはしごきなんて生やさしいもンじゃない。リンチだ。あれで50人からいた新入部員が10人になった。

 あんなに好きだったドラマや原作漫画の『おれは男だ!』は、僕にとって絵空事になった。と同時に、魅力を失った色褪せた作品になってしまった。それは『おれは男だ!』に限らず、スポーツを描いた全ての漫画に云えることかもしれない。所詮漫画は漫画。

 勿論、ドラマや漫画と現実は違う。もともと漫画は絵空事を楽しませるもの。
 が、現実以上の夢を見せてくれてこそ、真の素晴らしい“絵空事 - エンターテイメント”と云えるのではないだろうか。その点、『おれは男だ!』はちゃちかった。

 僕の青春は、圧倒的に“華”に欠けていた。けれども、もっと違った価値が無かったわけじゃない。負け惜しみじゃなく。
 強くなることも、友情や信頼の尊さも、そして心身を鍛えることも、地べたを這いつくばるようなカッコ悪い現実の方が、理想的な熱血を描いた漫画の100倍は魅力的だった。と、いまなら思える。


 しかし、フィクションにも魅力的な作品がないわけではない。
 高橋三千綱の『九月の空』は、僕が経験した想いに近い。感銘もした。高校生の時に読んだが、いま読んでも、「剣道をしたい」という気持ちがむくむくと起きあがってくる。そしてもう一作、小林まことの『柔道部物語』。

 『柔道部物語』を読んだ時には、心が震えた。もう僕は社会人になっていた。


 中学では吹奏楽部でサックスを吹いていた三五十五は、高校入学時、ほんの少しの好奇心から覗いた柔道部に、騙されるようなカタチで入ってしまう。
 髪は丸坊主にされ、「セッキョー」と呼ばれるしごきに遭うが、持ち前の負けず嫌いが邪魔をして、退めるに退められなくなる。
 が、初心者の三五は、その負けず嫌いと集中力で、めきめき力を付け、背負い投げを武器に全国制覇を果 たす。


 『柔道部物語』は、“スポ根マンガ”や“格闘技マンガ”と呼んでしまうには、どうも的はずれな気がしないでもない。敢えて云うなら“部活マンガ”だ。
 読む者を奮い立たせるドラマティックな展開を見せながら、そこには僕が送ったのと同じ「部活に明け暮れた青春」がある。剣道と柔道の違いこそあれ、僕の部活動生活そのものがそこには描かれていた。
 舞台は作者の出身地である新潟県だが、全国どこでも、運動部の有り様なんていうのはあんなものなのだろう。汗臭い運動部の経験者は必読の漫画だ。間違いなく泣ける(もしくは笑える)。


 とにかく、小林まことは“人”を描くのが上手い(“ネコ”を描くのも上手かった(笑))。
 脇役一人一人に性格が与えられ、その性格がきちんと顔に反映している。サワリ程度にしか登場しなかったキャラや、試合の対戦相手まで含めるとかなりな数にのぼる登場人物にあって、タイプがダブる無駄 がないので、個々のキャラクターを記憶に留めやすい。そうしたキャラ設定がしっかりとしているから、例えば生徒たちの親が登場した時など、説明がなくとも誰が誰の親なのか、絵だけで判る(笑)。 <その各キャラクターは、手塚治虫のキャスト制よろしく、他の作品でも活躍している(これが小林まことを追えば追うほど、面 白くなってくる)。

 絵が巧いかどうかについては、好みもあるので賛否両論あるところだと思うが、僕は自信を持って「うまいっっ!」と断言する。
 いい加減そうに見えて、その絵は細部まで気配りされている。大胆なコマの取り方を「手抜き」と評していた評論家がいたが、それはしょっちゅう原稿を落とす小林まことの印象からくるもので、決して手を抜いているのではない(と僕は思う)。
 それよりも、流して読んでいては見落としてしまいそうな隅にまで“オチ”が隠されている遊び心が、原稿を遅らせる原因だったのでは? と贔屓の引き倒しをしたくなる(笑)

 この作品を読んでいるとつくづく「“漫画”はストーリーや運びだけではない。絵の巧さだけでもない」と思い知らされる。
 小林まことの真骨頂は、ストーリーの面白さと絵の巧さの両立の陰に潜む、“遊び心”にある。きっとその“遊び心”は、絵が巧いからこそ成せる業で、そうした裏打ちが作品に比類なき厚みをもたせている。


 そして『柔道部物語』の魅力は、三五十五の性格に尽きる。
 まだ「前向き」だの「ポジティブな生き方」だのがもてはやされる前、僕は三五十五を見て、幾度パワーを貰ったことだろう。

 ひ弱そうな吹奏楽部の少年が、弛まぬ努力で、時には味わう挫折もバネにして、高校柔道界を震撼させるヒーローに変わっていく姿は、絵空事とわかっていても、荒唐無稽には感じない。荒唐無稽に感じさせない息吹が、『柔道部物語』には宿っている。
 実際、小林まことは柔道部に所属していたらしい。そうした経験が描かせた道筋が、他のスポーツ漫画との一線を画している(大体、漫画家にスポーツをやっていたような男は少ないので、このあたりのリアリティが格段に違う)。

 人生の成功の極意は、「自分は成功する」と信じること。
 そうしたポジティブな考え方がこの漫画では、殊更強調させることもなくサラッと描かれている。

 「どうしたら自信がつくか?」
 この問いに柔道部顧問の五十嵐先生は、「俺って… 天才だあああ〜!」と大声で叫ぶことを伝授する(あまり天才だと気が重くなったりするので、バランスをとるために「俺って、バカだああ〜」と叫ぶことも添えて(笑))。
 マンガチックでふざけたくだりだが、どうしてどうして、これは成功に有効な自己暗示法である。この宗教的な妄信さで、部員たちは自我に目覚めていく。

 スポーツには“勝ち負け”という結果がある。そして努力は“勝ち負け”という目に見えるカタチになって表れる。白帯の三五は、試合に勝つことで、自分の努力が成果 になったことを自覚する。


 顧問の五十嵐先生の言葉で、僕がどうしても忘れられないものがある。

 柔道六段とはいえ、腹筋や腕立てもろくにできないくらい身体が鈍っていた五十嵐先生に対し、生徒たちは不安を抱く。が、先生、強い強い。
 「(先生は)腹筋もできないくらい、なまってたんじゃなかったんですか・・・・」と不思議がる生徒に、「腹筋だの腕立てだのは、現役の頃から得意じゃなかった」と先生は答える。
 「それじゃ、なにが得意だったんですか」と訊ねてくる部員たちに、五十嵐先生はこう云い放つ。
 「柔道が得意だったんだ」

 う〜む。。。 これは真理を突いていると思いませんか?

 さらに「柔道が得意だったって、それじゃ練習はしなかったんですか」と単純な質問に、「バカ。練習しなきゃ、強くなるわきゃねぇだろ。しかし練習を競い合っているわけじゃない」ときっぱり。
 更に「どうやったら強くなるのかって、きいてるんですよ〜〜〜」と喰いつかれ、
 「そんなもんしるか !! 俺は自分がどうやったら強くなるかってことしか考えたことねえわい。他人がどうやったら強くなるかなんて、知るわけねえだろ」
 と、一蹴。

 これが他のスポーツ漫画と異なるところだ。
 いい加減な返答のように見えて、勝負の、そして人生の神髄を捉えている。
 答えじゃないようで、答えになっている。マニュアルやハウ・ツーに頼らなければ何事も成せない者にとっては、風に吹かれた答えが見えないかもしれないが。


 三五十五は、破竹の勢いで強くなっていく。
 その成長過程は、読む者をプラス思考へ導く。

 僕はことあるごとに、就寝前に『柔道部物語』を一気読みした。自分が大事な局面 に置かれている時、躯が自然とこの作品を求めた。
 つげ義春も山田花子も僕は好きだ。が、決して眠る前に読んだりはしない。どんな想いで眠り、そして目覚めるか… そのことがどれだけ己の運気を変えるか、年齢を重ねる間に誰もが学んでいる。


 小林まことでは他にも『1・2の三四郎』や『1・2の三四郎 2』という格闘技モノがあり、特に『三四郎 2』では『柔道部物語』で鍛えられたスピード感とボルテージ・アップ感が生かされ、共に前向きな気持ちにさせてくれる好きな作品だ。
 ただ、好みで云えば『柔道部物語』に軍配が上がる。

 それは『マンガの描き方』『What's Michael』『ハロー!ヘバちゃん』同様、作者が実際体験しただろうことのデフォルメの上に“絵空事”が立っているからだ。
 逆に云えば、僕が運動部出身でなければ、『三四郎 2』を推していたかもしれない。


 こうして僕は四十ヅラを下げてもなお、漫画からチカラを貰っている(笑)。

 
 

| MENU |


テレビまんが大全集

Copyright © 2002 Nyanchoo

counter