ジョーと紀子 『あしたのジョー』
 

© Asao Takamori
© Tetsuya Chiba

 『巨人の星』と『あしたのジョー』は原作者も同じ(梶原一騎、高森朝雄とペンネームは変えているが)で、《少年マガジン》での連載もTV放映もほぼ時期が重なるということもあって、括られて語られることが何かと多いが、その作品の称賛については『あしたのジョー』に軍配が上がりがちだ。

 大体に於いて『あしたのジョー』は、インテリと呼ばれる、或いはそれを匂わせる層からの支持が多い。
 バットに命中する魔球だの、消える魔球だのと荒唐無稽な、悪く云えばお子様向けな『巨人の星』のストーリーに対し、まっ白に燃え尽きた『あしたのジョー』からは、“男の美学”がぷんぷんと匂う。両手ぶらりのノーガード戦法やクロスカウンターも、漫画を子供のモノとして蔑視しているオトナから目を逸らされる程の奇のてらいではない。そこが両作品の評価の明暗を分けた理由であろう事は想像に難くない。

 しかしこの両作の熱心なファンなら、単純にこの2作がそんな事だけで甲乙付けられる程浅い漫画でないことは知っている。『巨人の星』も真剣につき合ってみれば、これ程“美学”に徹した作品もないだろうことが判る。『あしたのジョー』より感情的な面 が強調されている分、のめり込んだ方も多いのではなかろうか。


 さて、僕個人の好みは… となると、
 結論から云えば、TV版は『巨人の星』、原作漫画は『あしたのジョー』ということになる。


 TV版『巨人の星』は、力作だ。
 大袈裟な演出は、後々まで語り草になり、かえって作品の評価を落とすような結果 になってしまったが、笑う奴には笑わせておけばいい。

 地面の土煙をも巻き込むような豪速球、武蔵になったり、獅子になったりのデフォルメ七変化、衝撃を受けた際の代名詞にもなった「ガーン!!」等々、枚挙にいとまがないが、何と云っても恰好良かったのは、花形が大リーグボールをスタンドに運ぶシーンだ。あの絵のド迫力は、原作漫画の中にはない。
 また、戦中シーン等々、実写映像との合成で、ニュース解説的な臨場感を出しているところも効果 的だ。

 もうひとつ特筆したいのは、TV版『巨人の星』には、原作漫画にないエピソードが数多く挿入されている点だ。
 連載のスピードとの兼ね合いで、そうした道草的作品が生まれたのかもしれないが、どれもオマケなどとあしらえない充実した内容になっている。

 特に好きなエピソードは、アメリカに帰ったオズマが来日し、大リーグボール3号に挑戦する話。
 原作漫画は、少年期から大リーグボール1号あたりまでは話の肉付けも盛りだくさんで、コミックスの巻数もかなり割いているのだが、フィナーレに近付くにつれて話の展開は早くなり、多くを端折っている感が否めない。
 しかしこのオズマのTVだけのエピソードは、見事にそうした空洞を補っている(話も泣ける)。

 こうしてアニメーションだから出来た演出と、ストーリーに膨らみを持たせるエピソードで、TV版『巨人の星』は、テレビまんが史上にも燦然と輝く、侮れない傑作となっている。


 『あしたのジョー』と『巨人の星』を、殊漫画に限って比較したときの決定的な違いは、“絵”の表現の巧さだろう。
 ちばてつやの表現力には脱帽だ。

 鳥瞰、もしくは見上げを中心としたアングル、これにより、コマの中に独特の空間の広がりが生まれている。これは、他のちば作品でも同様だ。

 そして、登場人物ひとりひとりの表情。群衆(モブ)を含め、単一的でない丁寧な描き込みのなされているその表情は、余計な説明を必要とせず、絵だけで全てを表現している。

 そう、『巨人の星』は、絵以外(セリフや話の運び等)で、多くを語りすぎている。つまるところ、絵だけでそれを表現できなかったので、語らざるを得なかったのだ。


 ジョーの“美学”を決定づけている骨子に、紀ちゃんがいる。
 紀ちゃんは、ジョーが好きだった。

 ジョーは紀ちゃんを恋愛対象として見てはいなかったが、僕は紀ちゃんが好きだった(笑)。好きだったからこそ、僕は紀ちゃんのひとつひとつの仕種をじっと見つめていた。


 カーロス・リベラとの死闘の後の話だ。
 記者たちが鬱陶しかったジョーは、ふらりと橋の下のジムを出る。そこで偶然、丹下ジムに差し入れに寄ろうとしていた紀ちゃんと会う。雨が上がっていることに気付かず傘をさしたままだった紀ちゃんにジョーは、
 「玉姫公園へいくんだ。紀ちゃんもいくか」
と、何の気なしに誘う。
 その時の傘を閉じようとしていた時の、紀ちゃんの表情。
 ふきだしの無いそのコマに、紀ちゃんの想いの全てが滲み出ている。何の説明も要らない。

 そのまま二人は公園でデート(?)をする。
 そこで紀ちゃんは、来る日も来る日も汗とワセリンと松ヤニの匂いのジムで、食べたいものも食べず闘犬のように血だらけになって殴り合うだけのボクシングの生活をやめたら… とすすめる。青春と呼ぶにはあまりにも暗すぎると。

 実はこの“青春論”は『巨人の星』でも投げかけられる。
 しかし、そこで思い悩んだ飛雄馬に対し、ジョーはきっぱりと拳闘こそが“青春”だと云い切る。

 「そこいらのれんじゅうみたいに、ぶすぶすとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんのしゅんかんにせよ、まぶしいほどまっかに燃えあがるんだ。
 そして、あとにはまっ白な灰だけがのこる…」


 『あしたのジョー』ラストシーンを原作者梶原一騎から任されたちばてつやは、この時のジョーと紀ちゃんのデートに、この作品のテーマを見出し、ジョーがまっ白に燃え尽きることで終焉させることを決める。

 「ジョーの生き方」「力石の生き方」… そんなテーマについてはあらかた語り尽くされているので、ここでは“絵”のことだけに触れたいが、ちばてつやの絵から醸し出される(まさに醸し出されるという言葉がぴったり!)“魂”としか呼びようのない、具体的には言い表し難い雰囲気に支えられて、この漫画はすべての命題を繋いでいる。


 紀ちゃんは結局、西と結ばれる。
 その結婚式でのジョーのスピッチ(笑)。
 さんざん悪態を並べた挙げ句「まあ、せいぜいしあわせになってくれや!」と、ドスンと席に着くジョー。

 その次のひとコマ。

 花嫁姿の紀ちゃんの表情。

 このたったひとコマに、ジョーの生き方、紀ちゃんの選んだ道 ― その瞬間だけでない、二人の異なった考え方や“人生”そのものが、絵だけで表現されている。圧巻だ。これが、ちばてつやの底力だ。


 さて、TV版の『あしたのジョー』だが、漫画で成されたあの表現が、原画担当、アニメーター… と多くのスタッフの手を経ると、やはり難しくなってしまう。
 『あしたのジョー2』になって、アニメーションも洗練され、大局的なちばてつやの表現(例えば、ジョーの前髪が少し長くなり、顔が大人になり、その陰で何だか達観してしまったような顔つきの変化等)は、それなりに綺麗に再現されているが、ちばてつやのたったひとコマで過去も将来も見せてしまうあの“魂の表現”が、出崎統をもってしても描くことはできなかった。


 勿論、『あしたのジョー2』は良く仕上がった作品だ。
 けれど、僕がとことん好きになった『あしたのジョー』は、そこにはない。

 

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