誰も語らなかった『巨人の星』
 
 

 イソップ童話の『ウサギと亀』の教訓は、ずっと「努力を惜しまなければ、必ず勝利が得られる」的なことだと思っていたが、本当のところは「才能があっても油断すると足をすくわれる」だということに大人になってから気付いた。

 才能の無い奴は、いくら努力しても才能のある奴にはかなわない。勿論自分の子供にそんなことを諭しはしないが、哀しいかなこれは真理だ。

 そしてその才能は親から(果ては祖先から)遺伝子で受け継がれるが、才能の他にも人間はそれを取り巻く“気”というか、“運命”みたいなものも受け継いでいる。

 梶原一騎が『巨人の星』で描きたかった真のテーマは、そういった個々の人間のまわりで渦巻いている“運命”だったと、私は大人になってから気付いた。


 このことに気付いたのは、『巨人の星』の続編である『新巨人の星』を読んだときだった。

 幼い頃『巨人の星』が大好きだった私にとって、『新巨人の星』は全く馴染めない作品だった。絵が極端に劇画タッチに走ったのは、ターゲットの読者層の年齢が上がってもいるので、百歩譲って仕方なかったとしても、飛雄馬の回想シーンのお粗末なデッサンは許せなかった。右投げの投手として復活するという設定も、未練たらしくて(飛雄馬ではなく作者の商魂が)、私は連載雑誌や単行本を買ってまで読む気がしないでいた(しかし、気にはなって立ち読みはしていた)。
 同感のファンが多かったのかどうかは知らないが、人気の出なかった『新巨人の星』は尻切れトンボなかたちで終了をした(そこがまた後味が悪かった)。

 『新巨人の星』なんて描かなければ良かったのにとずっと思っていた私が、その単行本を揃えて購入したのはそれから20年が経った30歳を過ぎてからだった。購入した理由は他でもない、そのとき至極暇だったのだ。


 話は飛ぶが、私は『巨人の星』作中の登場人物牧場春彦が嫌いだった(どんなキャラクターかについては、これを読んでいる人は『巨人の星』の一応のストーリーを知っているという前提で省略させてもらう)。そこまで好感の持てないような人物ではないのだが、子供の頃からわけもなく嫌いだった。

 『新巨人の星』を(大人になって)読んだとき、私はその原因に気が付いた。

 飛雄馬が右投手として完全に復活した太洋-巨人戦の川崎球場に、売れっ子になった漫画家牧場春彦は来ていた。牧場がスタンドから応援する中、飛雄馬は甲子園時代からの宿敵左門豊作に打たれまくる。球も走り、切れが良かっただけにベンチは首を傾げるが、実は左門は飛雄馬打倒の秘策を持っていたのだった。

 「牧場春彦が絡むと飛雄馬はツイてない」

 これは飛雄馬にとってのジンクスだ。

 牧場の初登場シーンは、飛雄馬が星雲高校時代、父一徹を敵軍監督にまわしての紅白試合だ。このとき飛雄馬は「へそ打法」なるものの餌食になり、こてんぱんにやられてしまう。

 次は甲子園。対左門戦の前日牧場は左門の苦労話を聞かされ、それを飛雄馬に伝えてしまう。マウンドに立った飛雄馬は、その話しに泣かされコントロールを失う。責任を感じた牧場が懸命に飛雄馬を応援すると、左門の折れたバットが飛雄馬をめがけ、飛雄馬は負傷し、翌花形戦では負けてしまう。
 次は決定的だ。牧場は伴宙太の父親である星雲高校PTA会長伴大造を闇討ちし、濡れ衣を着せられた飛雄馬は高校を身代わり退学してしまう。
 枚挙にいとまがないが、巨人軍に入団した飛雄馬の初試合で「球が軽い」という飛雄馬の致命的な欠点が露見し始めるのだが、その試合のスコアブックを付けていた牧場は、あとから来た左門豊作にその符号をぺらぺら喋ってしまう。そして初の公式戦で飛雄馬は左門に本塁打を浴びることになる。
 「消える魔球」の秘密が暴かれたのも、漫画家牧場を囲んでの座談会だ。ここで飛雄馬と親友伴との決別 が決定的となる。
 「大リーグボール3号」で、投手生命を失うほど飛雄馬の腕がむしばまれていることを知ったのも牧場だ。飛雄馬はご丁寧にも牧場にそのことを告げる手紙をしたため、投手生命は事切れる。

 梶原一騎は、故意にこれを書いている。

 悪い奴ではないが、一緒にいるとどうも相性の悪い人物が誰にでも一人や二人いるだろう。

 子供の頃はいちいちそんなことにはお構いなしで気にしていないのだが、大人になるにつれそういう人物を鬱陶しく感じるようになり、ここぞという勝負の時は意識してそいつを近づけまいとする・・・これは人生のテクニックだ。

 この理屈では説明できない事実を、梶原一騎はわざと書いている。


 この設定が故意だと判れば、いろいろなものが見えてくる。

 花形満と左門豊作。天才と努力家。

 飛雄馬に勝つのは、必ず花形満だ。大リーグボール1号も2号も、遡れば甲子園での優勝もすべて花形一人のいいとこ取りだ。
 家柄もよく(自動車会社の社長の息子)、育ちもよく、顔もよく、花があり、おまけに天才。勿論花形が努力をしていないわけではない。恰好よく振る舞うその裏側で、人知れず特訓をする花形満。その花形を左門豊作は努力しても努力しても努力しても出し抜けなかった。『兎と亀』だ。

 『新巨人の星』に至っても、この図式は変わらない。ずっとプロ野球にいた左門は、実業界からプロ野球にカムバックした花形に、またいいところを持っていかれてしまう。


 星飛雄馬はどうだろう。

 戦争で肩を痛めるという不運のため「幻の名三塁手」として巨人軍を追われた星一徹の子供飛雄馬は、父の不運までも受け継いでしまう。体が小さいという努力ではどうにもならない致命的な欠点で、飛雄馬はプロの世界では速球投手としては通 用しなかった。おかげで次から次へと魔球を編み出さざるを得なくなる。その苦悩と葛藤を持ち前の根性と努力で克服していくところにこの物語の“美学”があるのだが、大リーグボール3号に至ってはその“美学”をも消え失せ、抱える宿命“不運”を呪うでも受けとめるでもなく、ただただ己の“業(ごう)”として超人的な野球をやっているとしか見えない。

 『巨人の星』のラストは父を倒し、パーフェクトゲーム達成という偉業の中で『巨人の星』を掴んだという大団円を描いているにも拘わらず、はじけるような喜びや、勝利者の偉大さは微塵も感じられない。むしろ、長い旅が終わったことへの安堵感をその疲れ果 てた笑顔は語っていた。

 飛雄馬(human)という名前も皮肉だ。


 『巨人の星』の魅力は、魔球や勝負を中心にしたプロットにあることは云うまでもない。

 けれどこの作品を大人になってから読むと、これまでの自分の人生に思い当たる節が必ずある筈だ。自身の運気が登場人物の誰かと重なるかもしれない。拘わった人間がやはり登場人物の誰かとオーバーラップするかもしれない。ここに例を挙げていない登場人物の人生にも、それぞれプロット以外の宿命がある。

 そしてハッピーエンドとは呼べないようなハッピーエンドな終わり方をさせた意図に気が付いたとき、梶原一騎の偉大さ(ただの格闘技愛好家だけではない、繊細な文学家としての側面 )に驚嘆するだろう。

 

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