はなぞの大学

学長:高卒★エスパー


 えー、予定を変更して、今回は「特別講義」を致します。 何故か?「お庭の梅が咲いたから」、今はそれしか言えません。 マァ、意味はないんだけど…σ(^◇^;)

 要は先日、某掲示板に書き込んだ話題をやるわけです。
 
皆々様よりの有り難きご意見の数々に、私自身インスパイアされた部分があり、また、それによって一つの「仮説」が導き出されたからです。

 と、いうことは…すなわち今回の講義のタイトルは何か?
 うっふっふっふっふ…。おぉーっと解った人は皆まで言うな!
 わしには言いたいセリフがあるんじゃ!

 おほん…賢明なる、読者諸君はすでにお気付きのことと思うが言えた・言えた(^^)
 今回の「怪は大・特別講義」のテーマ、それは…… 


『ワタリ』とは何か?
 〜白土三平が隠したもの、

 です!V(`_')v

 ニャンちゅう様が管理しているこのサイト、ここに訪れる人なら大概は知っているだろうけど、
 白土三平の忍者マンガ『ワタリ』には映画版がある。
 1966年に東映・京都で製作・公開された『大忍術映画・ワタリ(カラー・82分)』だ。

 この映画は、端的に言ってカルトだ。興味深い映画ではあるがさして面 白い映画ではない。
 白土三平の原作と比べてどちらが面白いかと問えば、たいていの人は「原作」と答えるだろうと、私は思う。

 なにしろこの映画、一応は原作から材を採った上で、工夫を凝らした丁寧な映像化を行っているのだが、いかんせん、白土三平独特の“ムード”が無い。皆無なのである。
 「ヒロインが壮烈な爆死を遂げる」なんていうハード・コアな描写も有るには有るが、 別に残酷趣味が“白土劇画”の持ち味なわけでは無いしね d(^-^)

 白土マンガの特徴といえば、「ミもフタもない現実主義」だ。
 “強い忍者もより強い術者に敗れる”、ここまではそれまでの忍者マンガにもあった視点。
 横山光輝の『伊賀の影丸』なんかはこれの開祖、ゲーム性の 高い、スポーティな忍者アクションですね。徹底的なエンターティメントと言っても良いでしょう。
 で、そこから完全に「悪」と「正義」の概念をとっぱらかって、代わりに、“最強の術も権力には無力だ”という視点をねじ込んだのが、白土三平独自の視点。
 当時、この辺は教育的配慮が求められるメジャー作家には出来なかった事。それが後年言われる…いわゆる「唯物史観」的な物言いになったわけね。

 「それを言っちゃぁ、おしまいよぉ」、読めば判るけれど、この視点が産み出した作品世界はとても「ドライ」だった。
 なにしろ、情もしがらみも関係ない。強い奴が勝つ世界なんだもんねぇ…。でもその辺が、またまた「血気に流行って戯言にうなされる若僧連中」にウケた一因でもあるのは周知の通 りですな。

 ま、とにかく早い話がそういう辺りの雰囲気を、映画はまったく再現できなかった。決定的になんか、のどか。それが“失敗”と言えば失敗。

 でも、その代わりにとても変わった映画になった。

 この頃の東映は軌道に乗ったアニメーションの興行に加えて、特撮映画の製作に力を入れている時期だった。

 ちなみに『ワタリ』の同時上映作品は『サイボーグ009』だ、SFと忍者の協力タッグだったワケね。会社的には東映と講談社のタッグだね d(^-^)


  東宝の特撮映画は大変な興行力を発揮していたし、海外セールスにも特撮モノは有利だったからだ。
 東映の会社自体が、特撮に前向きで活気があったわけだ。「なんか、色々やってみよう」、 そんな気概があった。
 だから『ワタリ』の特撮はとてもユニークだ。

 作中で披露される忍法は特撮を駆使して描かれたし、原色の蛾が乱舞する乱心法・「カカつつみ」に至っては“動画アニメーションとの合成”によって表現された (作画を担当したのは東映動画の実力者、森康二・菊池貞雄・羽根章悦、おお、なんと豪華な!)。
 「画面合成を縦横に駆使した特撮」、幻想味にあふれたそれらはこの作品のイメージを決定づけたと言って良い素晴らしいものだった。
  そして、それらは素晴らしい結果を残し、その効果によって『ワタリ』という映画が観客の心に残る物となった。
 “作品自体の評価”は、そう結論づけて差し支えないはずだ。

 だが、実は問題の根幹もそこにあった。あまりにも幻想的すぎるのである、作品全体がファンタジーの色合いに染まりすぎているのだ…。
 前で言ったように、白土忍者の活躍する世界は「ドライな世界」だ。華やかでファンタジックなイメージとは程遠い。映画とマンガでは、描かれた世界が真反対なのだ。

 加えて主人公のワタリを演じた金子吉延くんは絵に描いたような 健康優良児。とてもじゃないがワタリってイメージじゃない。
 もちろん、金子吉延と言えば後年の『河童の三平・妖怪大作戦(TV)』や『仮面 の忍者・赤影(TV)』で好演した名子役、未だもって子役の中じゃ演技力は抜群の名優なのであぁる。
 しかし、“ワタリ”といえば数ある白土キャラクターの中でも、グラフィカル・デザイン性が高い姿の部類に入るキャラクター。悪く言えば、一見「冷たい印象」があるキャラクターなのだ。
 いくら演技が上手くてもマンガ・ワタリのクールな眼差しは、技術でどうなる質のモノじゃない。
  犬に猫の演技をつけるようなモノだ。

 かくして、『大忍術映画・ワタリ』は白土三平の原作とは根本的に似て非なる物となった。
 興行的に惨敗と言うほどでもなかったらしいが…続編の企画が通るほどのヒットでもなかったって話だ。
  そして、それよりも何よりも原作者の白土三平が怒り狂ったC=(`ヘ´")
  当時の関係者の証言:「“あんなにしちゃった!”って言ってな、それっきり東映は出入り禁止よ」。

 いずれにしても、「大スクリーンで展開される白土マンガ」を期待した当時の『ワタリ』読者が、場内で唖然、帰り道で呆然とした事は想像に難くないねぇ(^_^;)

 と言うワ・ケ・で、映画は産業、作品が商品の側面を持つ以上『ワタリ』は失敗作。「ヒットしなけりゃ、失敗」、TVに押されて斜陽の映画会社は、追い込まれていたのよ。
 
ところがここで試された「忍法ファンタジー」の手法は後になって大きく花開く事になる。
 「柳の下を掘り尽くす」、東映の実験は続くのだ。

 同1966年末、東映は冬休み子供向けプログラムとしてある作品を投入する。これが再起1作目ですね。
 監督・山内鉄也が『大忍術映画・ワタリ』のシナリオを書いたライター・伊上勝(『隠密 剣士』以来、忍者物のエキスパート)と組んで製作した絵巻物のような一編、題して『怪竜大決戦』を発表したのだ。
 これは有名な「児雷也モノ」に材を採った“怪獣時代劇”で、松方弘樹演じる児雷也と、大友柳太郎が演じる大蛇丸の忍術合戦が主題となっている。その上で、両者が忍術で変化する大ガマと怪竜の“着ぐるみプロレス”を大画面 いっぱいに描き出した快作だ。
 ことに2等の両者の最終決戦のリングに選ばれた城郭には、極めて大規模なミニチュア・セットが用意された。
 そのおかげで観客は、クライマックスでエキゾティックな怪獣スペクタクルを満喫できる仕掛けになっている。
 ちなみに、その“ミニチュアの規模”について言っておくなら、例にあげたいのは「怪竜に突き落とされた大ガマが掘りに落ち込むシーン」だ。石垣の上から掘りまでは大人の胸元を越えるほどの高低差がある…想像して…please。
 「石垣の上から、掘りに落ちる大ガマ」、実にこれがワン・ショットで撮影できるほどの大ミニチュア・セットが使用されているのであぁぁぁる!(^^)

 そして更に実験の舞台はTVへ移り、エポック・メイキングな作品が生まれる。特撮パートを演出した倉田準二・特撮監督が中心となり、伊上勝(またもや、)が絶妙の 筆の冴えを見せた空想科学時代劇。
 すなわち『仮面の忍者 赤影』である!! これはもう説明不要だね。空前絶後、一代の傑作だ。

 マァとにかく、東映特撮は『大忍術映画・ワタリ』を起点に、白土的世界とは真逆の方向へ突っ走って傑作をものにした。これは事実。
 そういった結果を見ると「特撮映像は白土三平には向かない」のかもしれないなぁ。
 むしろ、東映動画が制作したTVシリーズ『風のフジ丸』の方が、ちょっとしたところに白土っぽさが感じられて興味深かったりもする…。

 じゃぁ、話をマンガの方へ戻してみよう。
 「死ぬときゃ、おっ死ぬ」、「泣く子と、地頭には勝てない」、そんな作品世界で“白土忍者群”は何を敵に回して戦ってきたのだろうか?

 簡単だ、白土忍者の敵は時の権力者や社会構造だった。

 若い方のために書いておくと、白土三平は何も時代劇専門の漫画家ではない。
 キャリアをスタートさせた頃には『消えゆく少女(貸本)』なんて原爆禍に軍政下の強制連行を絡ませたドラマを描いているし、『死神少年キム』なんて西部劇だって描いている。後年にも、サバンナを舞台にギリシア神話を再現した、『神話シリーズ』なんてのも描いているんだ。

 でも、面白いのはやっぱり時代劇。それも忍者モノだろう。
 代表的なモノといえば…『サスケ』に『忍者武芸帳(影丸伝)』、『カムイ伝』の正伝に外伝、そして『ワタリ』! ファンの方なら先刻御承知だろうけれど、これらの“白土忍法帳”には共通 する特徴がある。

 一つは前に上げた「唯物史観的描写」、
 そしてもう一つは主人公たちは全てマイノリティ(少数民?)であることだ。

 それまでのマンガでは、忍者モノに限らず“主役=明朗闊達”で、主人公は年少読者の指針となるような品行方正で素直な人物であることを望まれていた。
 だから、主人公が個人的な問題、例えば洒落にならないコンプレックスや人に言えないトラウマを抱えていることなど、まず無かった。
 体制の中で「努力し、根性で勝利をつかむナイス・ガイ!」、言ってみればプチ『部長・島耕作』や、幾分は穏やかな『男一匹ガキ大将』の原形しかいなかったわけだ。

 ところが白土忍者は違う。『サスケ』は徳川方に抑圧され、狩り出される豊臣方の忍者だし、『忍者武芸帳』の“影一族”は遺伝的要因に依る先天的異能力者群の集まりだ。今も続く『カムイ伝』に至っては、近世の同和地域そのものが描かれている。
 つまり、白土忍者は社会から疎外される者たちだっ たんだ。
 しかも、代表作(もちろん面白さにおいても!)の全ての主人公たちが。徹底的だネェ…('.')

 先に書いたように映画『大忍術映画・ワタリ』には、そういう雰囲気は微塵もない。
 じゃぁ、原作にはあるか?実は原作にも書いてない。
 「じゃぁ、『ワタリ』は代表作の一つには数えられないのか?」、いやいやそんなことは、勿論ない。


 実は『ワタリ』に描かれる“ワタリ一族”は、そのモデルと思しき集団がある。人里離れた山間に暮らし、文字を含む独自の文化体系を秘匿すると言われ、決まった土地を持たない…山間漂泊民。
 差別的俗称に「日本のジプシー」と呼ばれる人々、すなわちサンカ民である(ウウ、漢字がみつからん!“山のアナ”って書くんだけどね)。

 私はこの「サンカ民」こそが、第3の忍者を描く『ワタリ』の原イメージではないか?そう、ニラんでいるのだ!(`_')))

 そうすると、『ワタリ』のカヴァーに連綿と記される、“WHAT IS WATARI?”の意味も解ける。

 「ワタリとはなにか?」。白土三平が初めて主人公の出自を読者に問うたのである。
 白土先生は、読者に「それを考えよ」と言っている…。

 さきほど、私は「“ワタリ”、それはサンカではないか?」と書き記した。だが、実はそれでは充分ではないと思う。何故ならば、設問がモデルの正体を隠すだけを目的とするならば、当然、完結編に当たってその正体を描破しなければ意味を持たないと思うからだ。だって、伏線だったら、張った伏線を伏せたままで終わるのと同じでしょう?

 であるから、私は"What is WATARI?"をこう読みたい。
 ワタリとはなにか?今、それは何なのか、それこそを思考せよ

 と、いうわけで、今回の「特別講義」これにてお仕舞い!!バイ・ビーィ♪


付記:
実は一時期の白土三平は、サンカ集団と共同生活を営んでいた、という噂がある。これは今回確認が採れなかったので事実とは違うかもしれないが、その際の経験が一連の“フィールド・ノート”的知識の形成に役立ったと考えられなくもない。また、白土三平の父親が“プロレタリアート画家”であったのは有名、そういった家庭環境が、後の作品に影響を与えているのはまず間違いがないだろう。

 

★サイト主宰者より

文中、一部不適切と受け取られ兼ねない表現箇所がありますが、他意のない論旨であると判断し、掲載をしました。
本稿により当方の思惑を越えた感慨及び不利益が生ずるようであれば、主宰者宛てメールをお願いします。
本稿上梓の可否を検討いたします。

ニャンちゅう

 

【追補】

 旧「月刊ガロ」、これは白土三平の才能に惚れ込んだ 出版者・長井勝一(故人)が、『カムイ伝』掲載を前提に創刊した漫画雑誌だ。
 その長井氏の著作を読むと、連載開始にあたって白土三平が構想した『カムイ伝』全 体の構想を知ることができる。その大意を引用してみよう。

 「抜け忍・カムイは、最終編にいたって北海道(当時の呼称で蝦夷)へ渡る。その後、彼の地のアイヌ民と合流し、クライマックスは「シャク・シャインの大反乱」を舞台にする。そして、カムイの傍らには“白い狼”の姿がある」〜談:白土三平、
  要約するとこうなる。

 拙文を読むまでもなく、「白い狼」が何のアイコンかはお分かりかと思う。 驚くべきは、既にこの時点において白土三平が自身の創作の総決算を構想していたと思しき事なのだ。

 理解しがたき「単一民族幻想」と唾棄すべき「全ての差別思想」、それに対するアンチ・テーゼの総決算・『カムイ伝』。
 それが出来る。それは白土三平が、『消えゆく少女』から『カムイ伝』にいたる過程で、およそ全ての「表現上、極めて微妙な題材」に全て手をつけたからだ。

 そこで私には、もういちど『ワタリ』の存在が大きく見えてくる。
 「山間漂泊民がモデルだと仮定すると…ワタリ一族を使って全作品がつなげられるのではないか?」。つまり、『カムイ伝』の最終章に“白土忍群の大団円”が行われる予定あったのではないか、という事である。

 時制的に影一族と猿飛が同時に存在する事はできないが、作中「猿飛とは人の名にあらず、猿飛とは技の名(総称)よ」と告げる『サスケ』。
 彼らが、やはり「我が一族とは個にあらず」とする影一族の流れにあるものとしたらどうだろう?そうだ、彼らは「われらは、遠くより来たりて、遠くまで行くものたち」と言っている。
 「それでも、未だ『カムイ伝』との時間的隔たりは大きすぎる」、なら孤高の白土忍 四貫目の存在はどうか、作品の枠を越え、稗田阿礼の如き彼の有り様 は使えないだろうか。実は「夙竜忍法」とは彼らの使う忍法が洗練されたものなので はないか?
 そして、彼らをつなげ、オーガナイズする存在こそが「ワタリ一族」なのではないか !?

 ここに至って、私の妄想は広がるばかりであーぁる(爆) 願わくは、今一度「白土忍者漫画」が広く・深く読み解かれん事を望みたい。
  そして、「白土☆スーパー忍者大戦」が出るといいな !!にん・にん!

 

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