大公 大公
Ludwing van Beethoven

Rubinstein, Heifetz, Feuermann

 

 星野青年が聴いた“百万ドルトリオルービンシュタイン(ピアノ)、ハイフェッツ(バイオリン)、フォイアマン(チェロ))”による『大公』を聴いてみた。

 正式には『ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 作品97《大公(Archduke)》』。ベートーヴェンがルドルフ大公へ献呈した曲。
 オーストリアの皇太子ルドルフにベートーヴェンがピアノを教えるようになったのをきっかけに、二人は師弟関係以上の友情で結ばれ、後にルドルフはベートーヴェンの最大のパトロンにもなる。
 ベートーヴェンは他にも、『ピアノ協奏曲 4番Op.58、5番Op.73』『ピアノソナタ 26番告別Op.81a、29番ハンマークラヴィーアOp.106、32番Op.111』『ミサ・ソレムニスOp.123』といった大作をルドルフに献呈していることからも、その想いが窺える。

 この『大公』、全曲を流れる堂々とした雄大さが特色。ベートーヴェンが作曲したピアノ三重奏の中でも、最も秀れた作品のひとつだろう。
 ピアノ、バイオリン、チェロのイチバンの効果的な使い方を知っての協奏的色彩は比類なき優雅さを醸し、意気揚々と風格を謳い上げながらも、和声の美しさはこまやかな心の動きを表現している。

 これだけ完成されている曲が、演奏者によって(例えば『海辺のカフカ』にあるように)心を揺さぶる程の違いがあるのか…? 有名なカザルス・トリオやスーク・トリオとの目に見えるような差異があるのか…?
 それがはっきりとあるから、結構驚き。

 第一楽章はまず、唐突に始まるような印象がある。そのピアノ独奏が楽譜では実に大らかなのに、演奏には底知れぬ深さと緊張感がある。しかし明るく親しみ深い。
 この主題を追うようにバイオリンとチェロが短いフレーズを奏で、主題はバイオリンに継がれる。
 ピアノが装飾的旋律を鳴らし、ト長調に転じ、二つの旋律から成るのびやかな第二主題が現れる。そのピアノ、チェロの繰り返し、ピアノの走狗を伴ったチェロがまったくもって見事。
 展開部は、ピアノのスタッカートと弦のピチカートが印象的な技巧を見せ、ピアノ・トリルから静かに第一主題が呼び戻され、第二主題は変ロ長調で再現、コーダは壮大に第一主題を謳い、円熟した情操と高貴な品位で締めくくられる。

 ため息が出た。

 1941年9月、戦時下にハリウッドRCAスタジオで収録された百万ドルトリオによる歴史的名演は、ライナーによるとかなり緊迫した状態でレコーディングされたらしい。
 特にピアニストとバイオリニストは衝突した。ハイツェフはロマンティックな部分でルービンシュタインが音を引きずりすぎると文句を云い、ルービンシュタインはハイツェフの弾き方が攻撃的すぎと非難。若かったチェリストは2人を尊敬し、意見が食い違うことはなく、逆にフォイアマンの演奏はセッションに新しい息吹を与え、ハイツェフを充分満足させるものだったが、このレコーディングの翌年、虫様突起炎で急逝。ハイツェフはフォイアマンの死により、室内録音への意欲を失うほどのショックを受けたという。

 確かにこのセッションには、凄みを含む緊張感が漂う。
 しかし、多くの言葉を用いれば用いる程的確に言い表すことが難しくなる“優雅さ”が、この録音には奇跡のように存在している。ライナーに書かれているような“殺気”は感じない。
 が、云われてみれば、この絶妙な呼吸から生まれた奇跡のような“優雅さ”は、三者三様の“殺気”が支えているのかもしれない。

 第三楽章の三拍子(僕は三拍子に弱い)は、ベートーヴェンの中でも屈指の抒情豊かな美しい旋律だ。
 第四楽章のコーダ、これも三拍子(八分の六拍子)で長く、弦がロンド主題を謳い、ピアノが華麗に鳴らされ、ラストはピウ・プレストとなって力強く結ばれる。

 心が洗われる。
 もちろん、スークトリオの名演にもそんな想いはあるのだが、それとはまた異質の、そう、おそらくはこの録音からでしか感じられないだろう「心を洗われる想い」が、何事もないように存在している。
「中にはもう少し構築的で古典的で剛直な『大公トリオ』を好む方もおられます。たとえばオイストラフ・トリオとか」
 「いや、俺はこれでいいと思う」青年は言った。「なんというか ― 優しい感じがする」

 「素晴らしい曲です。聴き飽きるということがありません。ベートーヴェンの書いたピアノ・トリオの中ではもっとも偉大な、気品ある作品です。ベートーヴェンは40歳のときにこの作品を書きあげ、これを最後にピアノ・トリオには二度と手をつけませんでした。彼はおそらくこの作品によって、自分はこの様式の頂点をきわめたと感じたのでしょう」※
 五感を刺激する村上春樹の文章には、レビューで何をどれだけ語っても敵わない。

(※『海辺のカフカ』村上春樹(新潮社))

 


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