菜の花畑 おぼろ月夜
作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一
唱歌

 

春の小川は、さらさら流る
岸のすみれや、れんげの花に
匂いめでたく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやく如く
 大正元年(1912)に尋常小学校四年生唱歌に制定された高野辰之作詞、岡野貞一作曲の『春の小川』は、昭和17年(1942)林柳波により「さらさら行くよ」「すがたやさしく、色うつくしく」「ささやきながら」と改作された。僕がこどもの頃唄っていたのは、その改作版だ。
 いい歌だな… と、こども心ながらに大好きだった。その「大好きだった」無垢な記憶が、いままたキュンとさせる。
 現在は「咲いているね」に変わっているそうだが、それはまったくいただけない。

 この高野辰之・岡野貞一コンビは他にも、『故郷』『春がきた』『おぼろ月夜』『紅葉』といった名曲を生み出している。どれも白秋や雨情に負けない“叙情”が宿っている。

 中でも僕は『おぼろ月夜』が大好きだ。
 というか、この世にあまたある歌の中で、これ程美しく、これ程完璧で、これ程胸を打つ歌はないんじゃないか… とさえ思っている。
菜の花畑に 入日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて 匂い淡し

里わの火影も 森の色も
田中の小径を たどる人も
蛙の鳴くねも 鐘の音も
さながら霞める 朧月夜
 霞たなびく春、一面黄色く敷かれた菜の花畑の上に月が出る。
 西洋の諺に「春は三日月のくぼみに水が溜まり、霞がかかって朧月夜となる。秋の三日月に水が溜まらないから、空はすっきりと澄みわたる」とあるように、春の宵に見える三日月は横に寝ている(秋は縦長)。
 蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の月は満月だろうか。しかし『おぼろ月夜』の月は、盃のような三日月に違いない。
 菜の花畑は、手付かずの自然ではない。菜種油の原料の生産の場である一面の菜の花畑には、自然の美と、人間の営みが同居している。暮れていくだけの景色なら、これ程の感慨は湧かなかったろう。
 見たまま、云い方を変えればそっけないくらいに淡々と描かれた風景画のようなこの詩には、きちんと微妙な陰影が描き込まれていて、それがぬくもりになっている。

 そして、ありきたりに「日本人の原風景」などと称されるだけでは足りない、とてつもない見事さがこの詞にはあある。

 それは二番の歌詞。
 連なる5つの「も」。
 農村の家々を描写した「里わの火影」、それを囲む景色「森の色」、その風景にズームした「田中の小径をたどる人」、そして背景にずっと響く自然の「蛙の鳴くね」と、生活感のある夕暮れの音「鐘の音」。。。
 力業のようにすべてを「も」で引っ張りながら、まるで練られた映画のカット割りのような並列と対比の妙で、まったく違和感を抱かせない。
 聴く者はそうして遠近感のある“情景”にたたみかけられる。

 が、それだけでこの歌は終わらない。

 「さながら霞める 朧月夜」

 「も」で括って引っ張った情景を、ひとまとめに呑み込んでしまうこの一行。
 自然の大きさと、生活の単位の小ささ。しかし宇宙から見た生活の単位は小さくとも、それが全てである我々には、とても大きく大切なもので。。。
 なんて大きく、なんてあたたかく、なんて切なく、なんて愛情いっぱいな歌なんだろう。諸々の想いに、はからずも涙がこぼれそうになる。

 3拍子の旋律も、申し分なく美しく、この詞にぴったり寄り添っている。

 


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