月夜のカヌー 月夜のカヌー
吉田拓郎

 

 何がいいって、まず音がいい。
 よく録れてるよね。バンドの肉付きが見てとれる。プレイヤーそれぞれが“個”を主張していながら、潰し合うことのない、若い気概と大人のわきまえを併せ持った音。
 そして何と云っても、拓郎の曲が生き生きとして聴こえる。それは何故か? …答は簡単。全曲拓郎がアレンジしてるから(笑)。

 拓郎のデモ・テープは、深夜放送時代によくかけてくれていたから、耳にしたことがある人も多い筈。これがね、結構良かったりする。その度に思ったのが、なまじ誰かに編曲してもらうより、拓郎のアレンジのままプレイしてしまった方が、拓郎の曲は生きるんじゃないか? ってこと。

 ただ拓郎は拓郎なりに、悩んだり闘ったりしていたのかもしれない。所謂“拓郎節”ってやつと。
 ディランの歌が、詩は学識者から評価されながらも、少ないコードで組み立てられる作曲に「稚拙だ」と音楽的価値を認めない輩がいるように、拓郎も自分のシンプルでストレートなコードから成り立つ旋律に行き詰まりを感じてか、小手先のメジャー・セブンスやオギュメントに逃げてみたり、フュージョン・チックな編曲をしてくれるアレンジャーに化粧を委ねたりしていた時期もあった。
 それはそれで、ずっと拓郎を追いかけてる僕のようなファンにとっては食傷を解消するものではあったけど、やっぱり拓郎の歌は拓郎のメロディと、拓郎のアレンジが肝だ。

 松本隆は『心の破片(かけら)』('99)の詞を渡す時、「往年の拓郎のメロディで」と注文を付けたそうで、そう、誰が何と云おうと拓郎のメロディを認め、それが現在の「歌のつまらない」音楽界に対抗できるものと信じている人はいるわけで。だから僕は『心の破片』を初めて聴いた時、心底震えたわけで。

 その昔拓郎が“アイドル”と呼ばれる人たちに曲を提供していた頃を彷彿とさせ、とてつもなく懐かしいところを突かれた感じがくすぐったい『花の店』、或る面現在(いま)の拓郎節を象徴するような『少女よ、眠れ』、拓郎自身のルーツ(ディランをはじめとする洋楽にかぶれる前)がうまく出ている『星降る夜の旅人は』、その昔「春を呼べ」と叫んでいたのが、今度は去りゆくものたちの寂寥に叫ぶ『春よ、こい』、『蒼い夏』から70年代の良さも鬱陶しさも脱ぎ去った『白いレースの日傘』、拓郎しか作らないだろうし拓郎しか歌わないだろう『ときめく時は』、そしてきっと拓郎ファンには一番ウケるだろう『人間の「い」』。

 『元気です』('72)の、例えば『リンゴ』や『こっちを向いてくれ』、そして『伽草子』('73)の『制服』や『話してはいけない』の岡本おさみはそこにはいない。『襟裳岬』('74)や『アジアの片隅で』('80)の岡本おさみも。
 しかしコンビを復活したからと云って、夢よもう一度とばかりに、そこを目指したり求めたりはしない岡本おさみと吉田拓郎の、「どんなもんだ!」に、二人の底力の凄さを見せつけられる。

 個人的には、『聖なる場所に祝福を』の詞と、表題作『月夜のカヌー』がベスト。気負いのない『流星2003』も。

 『月夜のカヌー』の「話すことはいつも他愛ない♪」から「話すぎて」のメロディのつなぎは、拓郎以外誰もやらない。昔、近田春夫が拓郎を評し「自然に体からメロディが湧いてきて、そのメロディが即商品となる作曲家」と云っていたけれど、こねくりまわしたら出来ないメロディだよね、『月夜のカヌー』。
 最後のサビの繰り返しの歌詞がビミョ〜に異なっている(そこが大事なんだよね)のも、往年の拓郎の曲っぽい。

 ひとつだけ気になるのは、歌詞カードの中の1枚の写真。
 拓郎がギターケースを下げ、道の途中で振り返っているショット。
 中学時代僕は、『気ままな絵日記』という拓郎の著書の中の、ギターケースを下げて歩く拓郎のスナップに憧れたものだが、そこでは自然な拓郎の姿が、今回の写真は不自然極まりなく見える。だっていま拓郎は、自分でギターケースなんか下げて歩かないでしょ?
 そう思うとラフな一発録りのようなアルバム全体のバンドの音も、綿密に計算されたプロデュースの許にありきなのでは? …と穿ってしまう。「自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう」。
 その真偽は、もっとアルバムを聴き込んだ10年後あたりにならないと、きっと判らない。

 


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