MOZART 音楽の戯れ

W.A.MOZART

 

 ジョン・ケージ(1912〜1993 米)の『4分33秒』という作品。
 ステージに現れたピアニストが椅子に掛けると、伸ばした手は鍵盤ではなくピアノの蓋へ行き、蓋を閉じてしまう。33秒後に蓋は開けられるが、数秒するとまた閉じてしまう。待つこと2分40秒。さらに開けて、また閉めて(1分20秒)、もう一度開けると一礼してステージを去る…
 このふざけた作品は“無音の曲”と呼ぶのだそうで、作曲者曰く「演奏者は何もしないが、その間に聴衆は自分の周囲から何らかの音を聴いている。偶然耳にするそれらの環境音が、音楽なのだ!」。

 “前衛”と称される芸術を、僕は認めない。

 今ではすっかりなりをひそめてしまったが、一時期“現代音楽”なるものが一部の間でもてはやされた。
 一般聴衆には不評だったが、新進気鋭と呼ばれる作曲家たちはこぞってガリガリ・ギイギイ不快な音をたて、「これぞ新しい音楽!」と云い張っていた。

 彼らの言い分は、「19世紀までの世界は伝統や因習といった迷信に縛られ、ドミソやドファラという音ばかりを正統とし、ファの#やラの♭などという音は“不協和音”と虐げられてきた。これを“知性”によって解放し、全てが同等の権利を持つ自由と平等の20世紀に変革しようじゃないか!」というもので、ハーモニーを壊し、“無調”の音楽を作ることこそインテリジェンスと誇った。

 そもそも大昔はド・レとかド・レ・ミ程度の音だけで単純な歌を作っていたものが、民謡では5音になり、年月を経てさらにドレミファソラシの7つの音を使うようになり、音楽の表現力は上がった。その進化が示すように、さらに半音をも含めた12音全て動員すれば、もっともっと凄い曲ができるようになる… そう考えるのはわからないでもない。

 ガリガリ・ギイギイの音楽家たちは叫んだ。
 「この音楽がわからないのは、人間の耳がその進化に追いついてないからだ!」
 「わからない聴衆は50年遅れてる!!」

 …しかし50年経ち、その真価は明らかになった。

 音楽にしろ、絵にしろ、注釈を添えたがる物は、つまるところ良いものではないのだ。
 無謀な“前衛”に走る人間は、所詮才能がないだけ。その事実を辛くても受けとめなければ、いつまでも言い訳に逃げ回ることになってしまう。真の天才は中庸の中に狂気を表現するものだ。

 例えばビートルズ。
 ビートルズの公式ナンバー216曲のうち、奇をてらわないコードが投げ込まれていないのは1曲だけ(何だかわかるかな?(笑))。あとは、どの歌にも「ここでこれを使うかよ!」ってなコードが用いられている。何もアタマが痛くなるような曲を演らなくとも、こうして伝統や因習を破ることはできるのだ。

 ジョンとヨーコで云えば、ヨーコはまさに前衛の旗手。二人のコラボレートは、ジョンの芸術とヨーコの芸術のぶつかり合いだが、聴くに耐えないヨーコの曲に対してはいまや誰も何も云わない。

 天才モーツァルトも、『村の楽士の六重奏(音楽の戯れ)』K522と、『音楽のサイコロ遊び』K516fという画期的(?)な2曲を残している。

 前者はバイオリン2、ヴィオラ、チェロ各1、ホルン2という編成で演奏されるディヴェルティメント風の曲。
 この作品、「あ、いいな…」と聴いていると、途中からおかしくなる。素人が演奏しているような感じになるのだ。勿論、楽譜通 り演奏するとそうなるよう作曲されている。
 おまけに4楽章からなるこの曲は、第1楽章と第4楽章がきわめて短く、第2、3楽章がやたら長いという座りの悪さ。
 アマチュア作曲家がたくさん出てきた時に、経済的に困っていたモーツァルトが腹を立て、「君らの作ってる曲は、こんなものだ」という皮肉で作ったらしい。

 後者は、各小節に番号が振ってある3拍子の楽譜が15頁(1頁に11小節)あり、用意された2つのサイコロを振って出た目の小節を演奏し、各頁ごとにサイコロを振って出た目の小節をつなげていく…  というもので、すると何と!ちゃんとメヌエットの小曲が完成するのだ。
 11×15通りの掛け合わせで、同じ曲になることはまずない。で、カタチになってしまうところがモーツァルトの天才たるところだ。

 卓越した発想なのか出鱈目なのか、区別が難しい芸術を作り出している人を、やはり天才とは呼べない。
 「人間の“知性”というのは、時として“馬鹿”の極致を演じることがある」
 それでも、それをアートと譲らない人もいまだいるのだが。。。

 


+--prev---index---next--+

 

Copyright2001 Nyanchoo

DO,DE,DA